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BIOGRAPHY

バイオグラフィー

複雑な家庭環境で育った泉忠司。幼少期は目立たなく内気な少年。父は酒とギャンブルで借金まみれ、母は昼間はOL、夜は水商売をしながら家計を支えていた。この状況を改善するために、いかに父と母を円満に離婚させ、父の借金を解決するかを考え、まだ幼ない忠司が思いついたのが法律を学び弁護士になるということだった。

弁護士になるために、弁護士を多く輩出する大学に進学したいと思ったが、通っていた底辺の県立高校からは有名大学に進学した人がいないうえ、たとえ合格しても入学金や授業料を払えないため、特待生として合格して奨学金を得るべく、必死に勉強に取り組んだ。勉強開始から半年後に全国模試で1位を獲得。そのあたりが『ドラゴン桜』のモデルと後ほど話題になるきっかけとなる。

ある日、英字新聞の「心にのこる言葉」という連載記事に出逢った忠司。この記事より感銘を受け、「こういう考え方ができるような人間になりたい」という想いから、その記事の著者である小野寺健の勤めていた横浜市立大学英文科に入学する。小野寺との出会いから「小野寺先生のような大学の先生になりたい」と新たな目標に目覚める忠司。小野寺健に師事し、そのまま横浜市立大学大学院に進学。この大学時代の恩師となる、小野寺健との出会いが忠司の人生を変え、忠司の才能を認めた小野寺からの導きで、世界の名高い名門、イギリスのケンブリッジ大学へ留学することとなる。 ケンブリッジ大学での留学を終えて帰国後、早稲田大学British Studies客員研究員を経て、横浜市立大学、青山学院大学、日本大学、国士舘大学、日本工業大学の講師を17年にわたって歴任。2018年10月にはケンブリッジ大学名誉文学博士号を授与され、同時にケンブリッジ大学コーパスクリスティコレッジにて名誉教授に就任することとなる。

生き甲斐だった大学教員の職業とは裏腹に、両親を支えたいという想いから、他の収入源も得たいと考え、大学時代に学んだ経験から論文・レポートの書き方の参考書や英語の参考書を書きはじめ、4冊出版したものもなかなか売れず、5冊目の本を出版する際、「これが売れなきゃダメだろう」という当時の自分にとって切り札とも言うべきノウハウを詰めた 『歌って覚える英文法完全制覇』 を出版。その発売日が偶然にも当時一切風靡していたドラマ『ドラゴン桜』の「英語は歌って覚えろ!」の放送回の翌日だったこともあり、50万部売れる大ヒットに。シリーズ化されると同時に、「リアルドラゴン桜」として、取材も多く受けるようになる。

その頃、学会発表する泉の姿を見た舞台演劇のプロデューサーからスカウトされ、俳優業を始め、俳優業の延長線で脚本を書いたり、演出をやったり、舞台やイベントやアイドルのプロデュースを行うようになった忠司。そんな折に「小説を書く気はないか?」というオファーが入る。もとよりイギリス小説を読んで文化研究を行うのが専門である大学教員の泉は「小説を書きたい」という希望があり、喜んで執筆開始。そこで、「参考書等とは違って、小説に関して言うと、1冊目の小説が売れなければ、2冊目以降は書くチャンスがない」と考えた泉は1冊目の小説を死ぬ気で売ろうと取り組み、処女小説『クロスロード』はシリーズ100万部を超え、コミック化されたり、関連商品が発売されるほどのメガヒットに。

その頃、講演会等で小説を売った際の戦略の一部を話すと、様々な企業の人たちから「経営コンサルタントやMBAをとった人が考えないような、すごい戦略で小説を売っている。ぜひ我が社の顧問に、取締役に」等のオファーが殺到。大学ではイギリスや英語の先生、大学外ではマーケティングや企画や営業の先生に。 

経営コンサルタントのようなことをやっていくうちに、「営業は営業部の人が、マーケティングはマーケティング部の人が実務を行うのであって、社長自ら動くわけではない。泉式の企画術、マーケティング術、営業術などは現場の個人に直接教えるべきだ」と考え、個人向けに講演・セミナー活動を開始する

時は経ち、世界はグローバル時代に。「海外で事業をやりたい」という生徒が増え、まずは自分がやってみなければと思い、海外進出。海外で事業を展開し始めると、国際送金の問題に直面。そんな折、ビットコインという便利なものを知り、「こんな便利なものの存在を日本人は知るべきだ」と思い、仮想通貨を国内外に普及させ、「キングオブコイン」と呼ばれるようになる。

様々な難関を経て成功へと達した忠司は自分が満たされると自然と他人に貢献したいという思いが芽生え生、世界へ貢献し始める。

日本では東久邇宮文化褒賞を授与され、中国で植林を行なって2度名誉賞に輝き、2017年にはドナルド • トランプ大統領より「アメリカ合衆国大統領府最優秀顕彰」を授与された。

2019年に、世界一の音楽プロデューサーDavid Fosterとの出会いから楽曲をプロデュースされ、2024年に歌手として全米デビューを果たす。